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近畿生コン関連協議会

独占連載「偽装労組」

連帯ユニオン関生支部の正体を暴く。

連帯ユニオン関生支部の正体を暴く。

  1. Vol.20 ヤクザと武委員長1

2020.06.30

Vol.20 ヤクザと武委員長1

「相次ぐ暴行、暴力団介入事件」「14時間監禁運輸一般生コン書記長」――。

いまから41年前、こんな見出しで、当時の運輸一般関西地区生コン地区の武建一書記長が、暴力団に拉致監禁されたことを報道したのは、大阪の地方政治新聞<大阪民主新報>(1979年6月14日付)。ここで言う武書記長とは、のちに運輸一般を離脱し、連帯ユニオン関生支部を結成した武建一委員長のことである。今回は武委員長と暴力団とのそもそもの接点について解明したい。

事件について書かれた記事<大阪民主新報>のコピー。

事件について書かれた記事<大阪民主新報>のコピー。

武委員長拉致監禁事件

当時の<大阪民主新報>によると、武委員長は、暴力団山口組系入江組(入江秀雄組長)の組員に、同年6月10~11日にかけて14時間監禁され暴行されたという。同組の「オチ」と名乗る男が「昭和レミコン(株)(神戸市)のことで話がしたい」と電話で武委員長を新大阪駅近くのマンションに呼び出し「昭和レミコンをなんとかしろ」「おれたちの出している新聞を会社に売りつけよ」と要求。これを拒否した武委員長を、ガムテープで目隠しして「鳴海みたいにしたろうか」と車のトランクに放り込むなど脅し続けという。ここにでてくる<鳴海>とは、3代目山口組の田岡一雄組長を京都市の京阪三条駅前にあった高級クラブ<ベラミ>で銃撃、同田岡組長に重症を負わせた2代目松田組系大日本正義団(大阪)の<鳴海清組員>だ。1975年から続いていた、<大阪戦争>と呼ばれる3代目山口組系佐々木組と2代目松田組の抗争で、1976年10月、大阪日本橋の路上で佐々木組組員に射殺された。日本橋事件というが、これへの報復として3代目田岡組長を狙撃したもので、<ベラミ事件>と言う。鳴海組員は、同年9月17日、六甲山中でガムテープにぐるぐる巻きにされ、一部白骨化死体で発見された。

武委員長への襲撃事件には伏線があった。昭和レミコンに運輸一般(当時は全自運)が結成された1973年当時から、会社の要請で暴力団が介入しはじめ、1976年夏には、20数人がストライキ中の組合員を襲撃。会社は組合関係者を会社幹部に就任させ労組を攻撃したという。武委員長が拉致監禁された際は、同時に当時大阪市北区堂島にあった<全日本洋画組合リアルティ支部大阪文化事務所>も被害にあった。武委員長が監禁されたマンションには<関西労働組合連盟>の看板がかかっており、事件直前に<昭和レミコン>代表が、「日曜日(10日)に何があっても知らん」とい言い残して、韓国に出かけたという。武委員長は、大阪府警東淀川署に被害届を出して、犯人逮捕を要求した。武委員長を拉致監禁した犯人は、同年6月13日逮捕された。捕まったのは入江組の元組員、準構成員など3人。実はこの監禁事件をめぐっては、当時の捜査当局筋から、新大阪で開放されたとか、カネの話も出たが、真相は藪の中だ。

ところが、事件から16年後の2007年10月発売された、武委員長の著書『武建一労働者の未来を語る――人の痛みを己の痛みとする関生労働運動の実践』(社会批評社)で、先の拉致監禁事件について、自らこう明かしているのだ。まず、武委員長に対する拉致監禁事件は2度あつたということだ。さきの1979年に続いて、1981年にもあったという。武委員長は、インタビューにこう答えている。

武委員長の著書『武建一労働者の未来を語る――人の痛みを己の痛みとする関生労働運動の実践』(社会批評社)の表紙。

武委員長の著書『武建一労働者の未来を語る――人の痛みを己の痛みとする関生労働運動の実践』(社会批評社)の表紙。

なぜか指示した会社の名前も言わず

「まず、1981年に私を拉致・監禁し、溺死体にするという事件があった。これに関連した会社の名前を出すのは差し控えます。というのは、当時と違ってこの会社は現在、反省して健全になっているからです。

この事件は、4社が1千万ずつカネを出して、当時の山口組の組員・松本勝美さんに依頼したという事件です。松本さんはもう亡くなっているので、名前を出してもかまいません。この事件で私が助かったのは、同じ徳之島出身の山口組の佐々木道夫さんという方が、私を拉致・監禁するよりも話し合いをした方が良い、と仲介してくれたおかげです。しかし、この時も一歩間違えば殺されるところでした。

実は、この佐々木さんには、1979年にも助けられています。このときはまさしく、殺される寸前にまでいった。

この79年の事件のときは、監禁され殴る、蹴る、ウイスキーをボトルごと無理矢理飲まされる、ということで、顔は腫れ上がってしまいましたね。それから、猿ぐつわをされ、逆エビで締め上げられ、車のトランクに放り込まれた。そして、そのまま車は、六甲山の山中に行ったんです。この山中には、あとで聞くと、2メートルほどの穴を掘って待っていたそうです――略――」。

武委員長拉致監禁事件について書かれたページ(武委員長の著書『武建一労働者の未来を語る――人の痛みを己の痛みとする関生労働運動の実践』より)。

武委員長拉致監禁事件について書かれたページ(武委員長の著書『武建一労働者の未来を語る――人の痛みを己の痛みとする関生労働運動の実践』より)。

同郷の佐々木組長に助けられる

この武委員長の話に出てくる、同じ徳之島出身の佐々木道雄とは、三代目山口組若頭を務めた地道行雄率いる地道組の若頭で、山口組の若中という幹部である。のちに山口組は一和会と分裂するが、この一和会の幹事長に就任した大幹部である。1979年に武委員長を拉致した入江組組長は、佐々木組若頭の地位にあった。そして、1981年の拉致・監禁に関わった松本勝美は、三代目山口組若中で分裂後、一和会本部長になった、これまた大物の暴力団幹部だった。のちにふれるが。当時、暴力団による組合員殺害事件や、介入事件が頻発していた時期でもあった。

「武さんが変わり始めたのは、暴力団による監禁・拉致事件からではないか」。元側近の1人は、そう振り返る。たしかに、その著書で暴力団幹部を<恩人>のように語る姿は異様だ。むしろ、幹部と知己であることを自慢しているとも聞こえる。次回も暴力団と武委員長の関りを追及したい。

※記事をより読みやすくする目的で、偽装労組Vol.4から、強調の意味での「 」や、新たに登場する会社名については、2回目以降の(株)表記を省略しています。

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